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多数の有名人が住み、豊富な話題にあふれ、そして成功した人には大きな報酬が与えられる米国では、大事な夢や希望もあっという間に消えていくようです。

それを明確にする事件が発生したのは1980年12月のニューヨークでした。たった一人の人間の行為で多数の可能性と夢が一瞬で消滅した話です。

 

1980年、12月8日のニューヨーク

1980年12月8日午後11時07分頃(日本時間9日午後1時07分頃)に元ビートルズのメンバーが死亡しました。

ビートルズ解散後はソロ・アーティストとしても、数々の作品を発表していた彼の名前は「ジョン・ウィンストン・オノ・レノン」です。

ミドルネームの「ウィンストン」は英国の総理大臣であったチャーチルから「オノ」は妻のオノ・ヨーコからとったものです。当時は子育てのため約5年間音楽活動を休止した後で、ミュージシャンとして復活した直後でした。

 

最新アルバム「ダブル・ファンタジー」を発表した直後で、犯人もそのアルバムにジョンからサインをもらっていました。

その風景は写真にも残っています。

午後5時頃ジョンの自宅前でサインをもらった後、そのまま待ち続けていた犯人は、帰宅したジョンに向けて5発の弾丸を浴びせて彼の人生を終わらせました。

裁判の結果、仮釈放ありの終身刑となり現在も刑務所に入っています。なんども仮釈放の申請を出していますが、現在のところ全て却下されています。

 

1980年で不可能となったもの

解散後は特に元メンバーのポール・マッカートニーとの関係が険悪になった時期がありました。

ところがこの頃には、米国でコンサートツアーを行っているポールが、ジョンを訪問するまでに関係が修復されていました。

また、ジョンが久しぶりに発表したニューアルバムも非常に素晴らしい内容で、今後が非常に期待されていました。

40歳という死亡時の年齢から、死んだおかげで伝説になれたと評価する人もいますが、すくなくとも音楽評論家には向いていないでしょう。

 

もしも再結成しないまでもポールとジョンが共同で作品をつくれば、おそらく「ビートルズマジック」が再現されていたでしょう。

このマジックは非常に不思議で、仲が悪くて一緒に曲を作らなくなっても、ビートルズとして名曲が生まれるというものです。

この二人の歴史と信頼と憎しみと、そしてお互いの才能に対するジェラシーによって生じた化学反応だったのかも知れません。

 

1980年12月で終わった夢

現在でも現役で音楽活動を行っているポールは、まだまだ元気そうです。

それに比べて、復帰して多数の名作を生み出す前に殺害されてしまったジョン。平和活動家でもあった過去が皮肉に感じられます。

この事件以降も多数の被害者を出しているアメリカの現状は、今後も変わらないでしょう。

 

死亡直前に行われたインタビューでは「(妻)ヨーコより早く死にたい。」という発言があったようです。

ジョンが運ばれた病院ではビ?トルズの名曲「オール・マイ・ラヴィング」が流れていたそうです。

この曲は、ジョンのリズムギターが印象的な初期の代表曲です。結局、最後もビートルズの音楽に見送られたようです。

ザ・ビートルズの再結成が不可能になった1980年末のある出来事

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