天才と評価されながらも、それに相応しい生活を送ることができなかった人物は、歴史上に沢山存在します。

ほとんどの場合、その才能が革新的すぎて誰にも理解できなかったパターンが多いと思います。

そのなかには誰の目にも天才であることが明確であるにもかかわらず、貧困のまま一生を終えた天才モーツァルトが存在します。

それでも創りあげた作品の輝きは、永遠に消えることがありません。

転んだ少年の手をとったのは、後のマリー・アントワネット

現在ではオーストリア(当時は神聖ローマ帝国)の首都となっているザルツブルグで1756年に生まれた「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」は父親も音楽家でした。

自分の子供に備わっている音楽的な才能に気が付いていた父親と一緒に、各地で就職活動を行っていたモーツアルトは大きなチャンスを得ることができました。

それは当時のオーストリア大公であったマリア・テレジアの前で演奏する機会を得たからです。

そのとき6歳だった彼が宮殿の床で転んだ時に、その手をとってくれた7歳の王女アントーニアは、後のマリー・アントワネットだったそうです。

その場のいきおいで、モーツァルトがアントーニアにプロポーズまでしていたとの逸話が残っています。

結局各地で大きな評価を得ながらも、安定した収入が約束されるような仕事は見つからなかったようです。

その後は、せっかく就職しても雇い主と衝突して解雇されるなどの不遇な時代を過ごしました。

最終的には、現代的に表現すれば「フリーランス」として音楽関係の仕事を行って、生計を立てる生活となりました。

そのため、かなり不安定な環境で過ごしていたことは確実でしょう。

宮廷や教会などで安定した職を得た上で、音楽家として活動する形態が通常であった時代です。

現在のように音楽家が自由な立場で活動すること自体が珍しいことでした。精神的にかなり追い詰められた状態で、数々の名作をつくったということになります。

モーツァルトは大バッハの音楽を吸収した?

父親と一緒に各地を移動する合間に有能な音楽家と交流して、多様な音楽の形態を学ぶ機会がありました。

例えば、自分の作曲した作品を検定したハイドンからは大きな賛辞を受けました。それだけでなくハイドン自身が受けたオペラの作曲依頼に対して、代わりにモーツァルトを推薦したほどです。

多数の作曲家から影響を受けたモーツァルトですが、そのなかでも大バッハ(ヨハン・ゼバスティアン・バッハ)には大きな影響を受けたようです。

皮肉なことに現在ほどの評価を受けていなかった大バッハの作品は、当時あまり知られていなかったようです。

大バッハの息子であるエマヌエル・バッハと親交のあった人物が催した音楽会で、はじめて大バッハの作品に触れたモーツァルトです。

その後6年間かけて大バッハの作品を研究して、自分のスタイルとして消化しました。

その影響はその後の彼の作品の数々から明確になっています。しかしバッハの音楽をそのまま自分の作品に取り込むことはなく、あくまで自分のスタイルの1つとして消化したということです。

当時はそれほど評価されていなかった大バッハの作品の魅力を理解できたということは、それまでの一般的な音楽スタイルだけにとらわれることのない敏感な感性を持っていたと言うことでしょう。

モーツァルトのかなり悲惨な晩年、そしてサリエリの存在

教会などで公の職についていないフリーランスのモーツァルトの晩年が、貧困と病気により悲惨であったとは知られています。

共同墓地に埋葬されたうえに死因も明確ではありません。

同時代の宮廷作曲家であり宮廷楽長という高い地位にいたアントニオ・サリエリが、毒殺したという噂が死後にたちました。

この人物の経歴からすると考えづらい状況であるため、最近ではサリエリを再評価する動きも一部であるようです。

教育者としても著名であったサリエリの指導を受けた弟子のなかには、モーツァルトの息子やベートーヴェン、シューベルト、リストなどが含まれています。

天才と呼ばれながらも謎に満ちた一生を送ったモーツァルト

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