彼はまさに「アイドル・ピアニスト」でした。ピアノをあまりにも力強く演奏するため、一回のコンサートで複数のピアノを壊していました。

ビジュアルだけでも女性を夢中にさせるリストが演奏すれば、気絶する人がいても誰も驚きません。

たまに演奏している本人が気絶することもあったようです。そんなアイドルは自由に生きながらも大きな功績を残しました。

リストにとってパガニーニは起爆剤

ハンガリーで1811年に生まれたピアニスト、作曲家である「フランツ・リスト」は、実際には十分ハンガリー語が話せないままこの世を去りました。

しかも彼が生まれた地域は現在ではオーストリアの領土になっているようです。それでも祖国に対する思いは強かったようです。

その証拠として、祖国に音楽院を設立するために尽力したことが知られています。現在彼の名前を冠した音楽院がドイツだけではなくハンガリーにも存在しているのは、ハンガリーの音楽界に対する貢献が評価された結果です。

リストが主に活躍したのは現在のドイツに該当する地域だったことから、ドイツの音楽家として扱われることが多いようです。

 

そんな彼が「ピアノの魔術師」とも呼ばれるようなテクニシャンになった裏には、現在でも知られているバイオリニストのニコロ・パガニーニの演奏を聴いた経験があります。

その後は演奏技術の向上に全ての情熱を傾けることによって、当時の他のピアニストではだれも到達できないレベルに到達しました。

同年代のピアニストであったショパンとも交流があり、お互いに尊敬する対象でした。

しかしショパンの曲を演奏する際にも、リスト流の派手な演奏であったようです。若いころのテクニック至上主義とも言える時代のリストの演奏スタイルには、あまり共感していなかったショパンです。

リストとワーグナー、ショパンの微妙な関係

ピアニストとしてもっとも人気のあった時代には、完全にアイドル化していたリストです。

何度か人妻と恋に落ち、その結果子供までもうけた彼にも無二の親友がいました。それが同時代の大作曲家であるリヒャルト・ワーグナーでした。

ところがリストの娘のコジマが夫を捨ててまで追いかけた男性が親友のワーグナーとなれば、長年の友情も終わりです。

10年近くの間は絶交状態が続きましたが、結局和解する日がやってきました。

ワーグナーが今日まで名声を保っているのは、その死後もその作品の再演に力を注いだ未亡人コジマの尽力があったことが知られています。

 

同時代に生きたショパンとの間にも色々なドラマがあったようです。

全く性格の異なる二人は友人でありながら、同時にライバルの関係とも言えました。

しかし39歳で亡くなったショパンに比べると74歳まで活動したリストには、変化できるだけの時間的余裕があったようです。

初期のテクニック至上主義を貫いていた音楽スタイルが、ショパン的な細かな表現を活かした作風に変わっていきました。

主に作曲家として活動するようになった時代には、後の時代に登場する新しい音楽スタイルの作曲家に影響を与えるような作品を書くようにもなります。

晩年のリストと伊藤博文の出会い

日本に初めての憲法を制定する準備として、ドイツのワイマール憲法を研究するために日本からやってきた伊藤博文は、リストの演奏を聴いたようです。

その演奏に感激した伊藤博文が、リストを日本に招いて西洋音楽を指導してもらうことを希望したとの話も残っています。

すでに晩年期にあったリストには、その要望が伝えられることはなかったようです。

最後は娘のコジマに看取られて74年の生涯を終えたリストが最後に鑑賞したのは、娘の夫であった亡きワーグナーのオペラ「パルジファル」でした。

ショパンと同時代を生きたリストはファンを失神させたアイドル

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