Chopin

「ピアノの詩人」と言われているショパンの魅力は何でしょうか?

自分の命を削って、それを音楽にしていたような39年間の生涯を考えると、それだけで引きこまれそうです。

愛国者であるにもかかわらず、祖国へ戻ることもできずに異国の地で亡くなった彼の作品を理解するには、その人生を知るべきかも知れません。

ショパンの残した名曲は彼の分身?

1810年(1809年説もあり)にポーランドに生まれたピアニスト、作曲家である「フレデリック・フランソワ・ショパン」はかなりの愛国者でした。

彼はフランス人でありながらもポーランドのために市民兵として戦った経歴のある父親と、もともと貴族の娘でありながらその地位を失った過去のある母親から生まれました。

両親とも音楽好きで母親はピアノを演奏できました。すでに7歳のときから作曲をはじめていたことからも、彼の能力が想像できます。

 

現在でも愛されている名曲のなかには、祖国であるポーランドの反乱がロシアに鎮圧された時期に書かれた「革命のエチュード」があります。

プロポーズして相手からは承諾を得たにもかかわらず、自分で病弱であることを問題視した相手の両親の反対で結婚を断念した後で書かれた「別れのワルツ」なども有名です。

その後に現れた新しい女性のために書いた「子犬のワルツ」などの曲には、その当時の彼の心境がそのまま表現されているようです。

体調が良好な期間はあまりなかったことが知られているショパンです。

これは慢性的に肺の病気を患っていたことが原因です。しかし体調の良くない期間にも、多数の名曲を書いていることが知られています。

ショパンは39年の生涯で何度のコンサートをしたのか?

ピアニストとしても有名な存在であったショパンです。しかし実際に多数の人を集めて演奏会(コンサート)を開催した回数は、生涯で30回程度であったと言われています。

これは本人があまり積極的でなかったことが原因です。晩年に行った複数のコンサートは作曲家として活動する資金と生活費を稼ぐために行ったようです。

しかし少数の人が集まったパリのサロン(社交場)ではピアノの演奏をひんぱんに行っていました。

 

当時のサロンには、音楽家以外にも他の分野の芸術家や文化人や貴族などが集まっていました。

サロンで交流していた音楽家のなかには、こちらも著名なピアニストであり作曲家であるフランツ・リストがいました。

このような交流の場で知り合ったのが「ジョルジュ・サンド」というペンネームで知られていた女性です。

彼女がショパンの健康のためにと連れていったスペインのマジョルカ島での約3ヶ月の生活が、その後の彼の運命を決定ずけたようです。

それは彼の健康をさらに悪化させると同時に、彼の代表曲と評価されている複数の作品を書くことになるからです。

ショパンの心臓だけが生まれ故郷に帰還

ジョルジュ・サンドと別れることで、精神的に落ち込んだショパンを救ったのは彼の弟子でもあったジェーン・スターリングでした。

彼女の勧めに従ってロンドンに言ったショパンは、大会場で何度かコンサートを行い高い評価を受けました。

しかし体調が悪化した彼はパリに戻り、そこで最後を迎えます。パリに埋葬されたショパンですが、彼の遺言に従いその心臓だけは取り出されて、姉のルドヴィカが祖国ポーランドに持ち帰りました。

現在ではショパンが最後にポーランドで住んでいた家の近くの教会に、アルコール漬けにした状態で保存されています。

まだ実現はしていませんが、最近この心臓を科学的に分析しようとする動きがあるようです。

死因などが不明であることから、その解明のために提案されているようです。

ピアノの詩人と呼ばれたショパンの数奇な人生はそれ自体がドラマ

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